2013.4.15 WATARU MUTO
若いころは、クラブが好きだった。 クラブにもいろいろあって、ちょっとナンパっぽい出会いを求めていくようなクラブが主流だったが、僕はもっぱらマニアックラブとか、とにかくテクノを聴いて、ひたすらストイックに踊るというような場所が好きだった。
それこそミネラルウォーターしか飲まずに朝まで踊ったりしていたこともあった。二十歳ぐらいのころの感覚。地下に降りていくと、4つ打ちのキックドラムの音が聞こえてくる。腹に振動が伝わってくる。そんな高揚感が好きだった。
そんな空間で、いろいろな人がいて、日本人も外国人も、男性も女性も、ゲイも、たまになぜかおじいさんとかがいたりとか。誰が誰であるかなんてどうでもよく、音のシャワーを浴び、内臓に4つ打ちの振動を感じ、かっこいい悪いかなんて関係なしに、それぞれが好き好きに踊る。午前3時ぐらいにもっとも盛り上がりがあり、そのなかで朝を迎える。くたくたに疲れて汗だくになっているときに、電気グルーヴの虹なんかがかかったりする。その瞬間のなんだかわからない、峠が見える感じが、とても好きだった。
そんな時何かアジア的平等というか、優劣、人種、強弱、貧富、そういったものを超えた平等感なんかを感じたものだった。建築や不動産に携わる中で、どこかそういう感覚を求めているような気がする。
もちろん日々日常には、それぞれの立場からの摩擦やすれちがい、意見や主張のぶつかり合いがある。しかし、そういったものすべてを何らかの共有感の中で、まあどうでもいいや、と思えるような機会。それを求めているところがある。
シェアカンパニーで運営するシェアハウスの一つに、ペットも住めるし、子供とも住めるシェアハウスがある。
シングルマザーの人とかとてもシビアに働きながら子育てをしている人たちがいて、そういう人たちが、なんとなく、互いにプロフェッショナルではないが、子育てとかの大変さを共有していく仕組み。もちろん子供の泣き声がうるさいとか、どたばた走る音がうるさいとか、日々の暮しにはいろいろあるだろうが、そうゆう雑多で多様なものを受け入れて暮らすことが、ともに住む人たちに与える好影響は大きいと思う。
かつては地縁社会全体で子育てとかをしていて、いろいろな立場で子を育てていかなければならない人たちを受け入れる環境があった。シェアハウスでその一部を担うことはできるのではと思う。でもそれには、雑多性を寛容に受け入れる、平等意識が必要なのではと思う。久々クラブでテクノが聴きたいな。