FACEBOOK

forum letter

思考の変遷 130522

2014.8.8 WATARU MUTO

シェアカンパニーにおいて、The Forumが持つ意味について

シェアハウスが作り出すコミュニティが、どういったコミュニティとなっていくのか。それはわからない。
しかし常にコミュニティから何かが生まれてくる。文化や芸術もそうだし、ビジネスだって、ある種のコミュニティが発信源だったりする。政治も。

シェアハウスにおけるコミュニティには、功罪があると思う。安くそれなりに楽しく、疑似家族的なことを体験できるので、居心地がよい。

それを提供することを目的としているのだから、間違いではないし、世知辛い状況が続くことが必然である、今後の日本にとって重要な役割だと思う。
多くの場合、シェアハウスのコミュニティとは、どちらかというと癒し的な要素が強く、互いを助け合ったりとそういう場合が多いと思う。

一方で言えるのは、シェアハウスが提供しているコミュニティは、切磋琢磨し、競い合い、上りあっていく。そういうコミュニティではない。
そういう上昇競争社会というのは、家の外にありそれに疲れたからこそセーフティーネットとしてのシェアハウスの存在意味があるのだろう。なので、シェアカンパニーの事業の多くを占めているのはシェアハウスであり、これは安定的な需要が今後も増大すると思う。

なぜなら、多くの人が量的成長を実感できた時代から、量的後退を感じざるを得なくなってくる時代にとっくにシフトしてしまったからだ。
でもそれででもやはり、少数だったとしても、上昇していくことを希求する、そういったコミュニティもやはり必要なのではと考える。
それでもやはり何らかの成長を求め、がりがりと、ギラギラと、やっていく人たちも一定以上必要だろうと思う。
それが行われる場所、コミュニティがシェアオフィスであり、その象徴がThe Forumであると解釈している。
また、個人的あるいは、シェアカンパニーに関る人のライフスパンにおいても、The Forumは重要と考える。30代前半から40代前半が中心メンバーである。


The Forumはとりあえず7年間運営する。この7年間は我々にとってとても大事な7年間だと考える。自らを高めていき、成長していく仕組みを持っておく必要がある。
The Forumはそんな場所としたい。面白い入居者の人たちとの接点も肝要であるし、また、この場所で行われていくこと、そこで出会う人たちとの関係性含めて、意味があると考える。

思考の変遷 130425

2013.4.25 WATARU MUTO

serge-gainsbourg-516x516
The Forum
のイメージに関して。

The Forumのあり方のイメージを表するのに、セルジュ・ゲンスブールを引き合いに出して、立ち上げの関係者たちに伝えた。1960年代~70年代にフランスのポップミュージック界で活躍した。顔はそんなにかっこいいとは言えないのだが、とにかく、美人にもてた。ジェーン・バーキンやブリジット・バルドー。こんな女性たちどうやって口説くんだと腰が引けてしまうぐらいの女性たちと浮名を流した。

ポップミュージックなのだが、歌詞がアイロニーや性表現と言った、批判的、攻撃的な要素を含んでいたり、赤裸々な表現とかで話題を作ったのだろう。政治的発言などもしたり、酔っぱらってテレビに出演したり。ハチャメチャな側面も持つが、なんか、知的で全体としてかっこいい。

The Forumにはそういう要素を表現したかった。空間もかっこいいのはさることながら、色気のあるかっこいい人たちが集まるだろうと思った。仕事をやりきっている人たちって、もちろん考え方もしっかり持っているし、哲学も持っている。そして仕事に対して当たり前だがとても真摯でまじめだ。でも一方で遊び心を持っていて、遊び方だったりが、やたらかっこいい。そして結果、もてる。

知的議論を重ねたり、それにより具体的なことを、The Forumに入居した人や関わった人たちと発信していきたいと思っている。が、それは、何かただの勉強会的な、まじめキャラクターだけでは実際できないと思う。セルジュ・ゲンスブール的知性と色気と破壊的行動力が伴ったような人々。そういう人が集うことにより、この場の価値がまた上がる。ここにはかっこいい人や、美しい人が集ってきている。

思考の変遷 130415

2013.4.15 WATARU MUTO

cat
若いころは、クラブが好きだった。 クラブにもいろいろあって、ちょっとナンパっぽい出会いを求めていくようなクラブが主流だったが、僕はもっぱらマニアックラブとか、とにかくテクノを聴いて、ひたすらストイックに踊るというような場所が好きだった。
それこそミネラルウォーターしか飲まずに朝まで踊ったりしていたこともあった。二十歳ぐらいのころの感覚。地下に降りていくと、4つ打ちのキックドラムの音が聞こえてくる。腹に振動が伝わってくる。そんな高揚感が好きだった。

そんな空間で、いろいろな人がいて、日本人も外国人も、男性も女性も、ゲイも、たまになぜかおじいさんとかがいたりとか。誰が誰であるかなんてどうでもよく、音のシャワーを浴び、内臓に4つ打ちの振動を感じ、かっこいい悪いかなんて関係なしに、それぞれが好き好きに踊る。午前3時ぐらいにもっとも盛り上がりがあり、そのなかで朝を迎える。くたくたに疲れて汗だくになっているときに、電気グルーヴの虹なんかがかかったりする。その瞬間のなんだかわからない、峠が見える感じが、とても好きだった。

そんな時何かアジア的平等というか、優劣、人種、強弱、貧富、そういったものを超えた平等感なんかを感じたものだった。建築や不動産に携わる中で、どこかそういう感覚を求めているような気がする。
もちろん日々日常には、それぞれの立場からの摩擦やすれちがい、意見や主張のぶつかり合いがある。しかし、そういったものすべてを何らかの共有感の中で、まあどうでもいいや、と思えるような機会。それを求めているところがある。

シェアカンパニーで運営するシェアハウスの一つに、ペットも住めるし、子供とも住めるシェアハウスがある。
シングルマザーの人とかとてもシビアに働きながら子育てをしている人たちがいて、そういう人たちが、なんとなく、互いにプロフェッショナルではないが、子育てとかの大変さを共有していく仕組み。もちろん子供の泣き声がうるさいとか、どたばた走る音がうるさいとか、日々の暮しにはいろいろあるだろうが、そうゆう雑多で多様なものを受け入れて暮らすことが、ともに住む人たちに与える好影響は大きいと思う。

かつては地縁社会全体で子育てとかをしていて、いろいろな立場で子を育てていかなければならない人たちを受け入れる環境があった。シェアハウスでその一部を担うことはできるのではと思う。でもそれには、雑多性を寛容に受け入れる、平等意識が必要なのではと思う。久々クラブでテクノが聴きたいな。

1 / 4123...最後 »

1 / 4123...最後 »
Back to Top