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思考の変遷 130409

2013.4.9 WATARU MUTO

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IDEEに関して、又は黒崎さんに関して。

出会いが人を加速させて、成長を促すと思っている。

長年付き合っていても、まったく仕事にならない人もいれば、出会って、数ヶ月で、とても深い仕事に発展する人もいる。出会うことにより、お互いなのだろうけれども、急速に発展し、成長することがある。僕はそういった意味では、重要な出会いに恵まれているのだろうと思う。江副さんとの出会いも僕にとってはもちろんそうであるが。 IDEEを創業した黒崎さんとの出会いもとても大きかった。とにかくアイデアとエネルギーと、人を巻き込んでいく、夢を見させる天才だった。
そして若者に機会を与え、伸ばした。黒崎さんに出会ったのは、僕がまだ大学院生の時で、その時やっていた活動にIDEEに賛同してもらいたく、無謀にも会いに行った。
青山のIDEE本店に行って、なんだかわからない活気がある中で会わせてもらってプレゼンしたが、多分黒崎さん、話はほとんど聞いていなかっただろう。後日黒崎さんにそのことを話したが、覚えていなかった。それはそうだ。その時黒崎さんはTokyo Designers Blockに夢中で、切り返しに、その話ばかりされた記憶がある。

その後、江副さんの会社に勤めているときに、個人で、中央区八丁堀のぼろ屋を改装して、リノベーション的なことを始めていた時に、友人がIDEEにいたので、誘われて、なんだかわからずにある会にいった。

それがR-projectの始まりだった。

そのとき集まった人たちは、いろんな人がいた。東京R不動産もある意味そのころが原点だったと思うし、今活躍している建築家の方や、今では作家になった方や、とにかく、横断的であらゆる活動をしている人達だった。そういう人たちをなんだかとにかく集め、巻き込み、本をつくったり、具体的なことが始動したりと。それが黒崎さんの求心力だった。僕は当時25歳とかで、よくわからず、でも熱狂していたのだと思う。


結果その延長線上に今の付き合いもあるし、仕事の流れの一筋もある。その後いろんなことがあって、疎遠になってしまったり、それこそ立場上対立的になってしまったり、とにかくいろんなことがあったが。でも個人的には、あるいは人間関係的にはいろいろあれど、2002年くらいの黒崎さんが声掛けしたことを始まりとして、関わった人が、多くの活動を開始して、あるいは加速させて、不動産や建築、それらが提供する人々の暮らし、そういったものに少なからずの影響を与える行動を拡大させていったのは、まぎれもない事実であると思う。

そして僕もその一人で、黒崎さんとの出会により、事業というか、そのもとになる考え方、活動全体を拡大させることができたと思っていて、とても感謝しているのだ。ある個人の旗印に人が少なからずの興味、というか、魅力を感じて集まる。その関係性が会社という形だけではなく、それらを超えた活動に発展する。もちろんコミットメントなき組織は続きづらいという側面もR-projectで学びはしたが。でも、長いスパンで見た時に、そこで集まった人たちがその後に、世に与えた影響を考えたら、とても意味のある熱狂だったのではと、強く思う。

思考の変遷 130402

2013.4.2 WATARU MUTO

不動産、建築と、金融は切っても切れない関係だ。

シェアハウスなどまだ投資商品として十分に認知されてない物件を作り、開発していると、いつも金融の壁にぶち当たる。リノベーションもまた然り。

つまり金融機関が評価できないのだ。結果、資産の流動性が普通のモノに比べ低くなる。アセットタイプによるものもあるが、例えば、新築と中古だと流動性はかなり変わる。

例えば、税務上の残存期間しかローンのアモチ期間を見られない場合が多い。すると、古い物件はそもそも融資対象となりにくい。人々の暮らしや、都市景観を変えていこうとするのであれば、金融の仕組み、解釈を変えていくという作業が必須だが。

 

金融庁と国交省のパワーバランスの問題でもあるのだろうな。やはりより優秀(学歴という意味で)な人がいる省庁の方が強いんだろうな。

昔聞いた話で、サブプライム問題はなぜ起きたかというはなし。

ハーバードとかの優秀な人たちの中で、最も優秀な部類の人たちは、自分で起業する。

その次ぐらいの人たちが投資銀行に就職していく。そして真ん中ぐらいの普通の人たちが、格付け会社に就職していく。

つまり、自分より頭のいい人たちが作った、金融商品など評価ができないのだ。

その金融商品を作った人に、評価の仕方を教わったりして、AAAとかいう評価をつけているわけだ。それはやりたい放題だろうなと思う。

 

日銀がどんなに金融緩和と言っても、要は、金融庁が、不良債権起きたときに結局レンダーに責任とらせますよ、という態度でいる限り、銀行の姿勢は簡単には変わらないだろう。

そして、わかりやすい方向のみに資金が集中し、局所的な一時的資産インフレが起きる。そっちの方が危ないとわかっていても。

 

税務上の残存期間しかローン元本返済期間を見られないという形である限り、古い建物はなかなか流動性を確保できず、結局、壊して建て直したほうがいい、という従来の流れになる。

いったいそれにより、どれだけの社会資本を毀損したことか。

誰の意思が働いてそのような制度設計になっているのか。日本人を疲弊させて貧乏にさせることにより誰が得をするのか。

穴を掘って、その土で、隣の穴を埋めて。また掘って、また埋めて。

壊しては建て直し、又壊し

思考の変遷 130401

2013.4.1 WATARU MUTO

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僕のビジネスの先生は、リクルートを創業された江副さんだった。

 2001年に建築の大学院を卒業した。その時は、いわゆる不況就職氷河期で、僕の研究室の先生はそれでも、力のあった人なので、同窓生は、竹中とか大成とかそこそこのゼネコンに就職したり、三井不動産とか、しっかりした会社に入っていた。

僕はそのころ、ほっといたら模型を作ってしまうような、超デザイン意匠思考の人間だったので、著名巨人建築家のアトリエを紹介してもらって、1週間くらい働いたりした。

でも何かしっくりこなかった。

 建築を作るということをもっと、お金の流れとかそこから考えないと、建築家という職能自体が立ち行かなくなるのでは、と、思った。

その時に江副さんに誘われて、江副さんがリクルート等の一線から離れた後にやっていた会社に入れてもらった。ディベロッパーだった。

江副さんはディベロッパーアーキテクトという言葉を教えてくれて、僕らにいろんな機会を与えてくれて、多くの体験をさせてくれた。

 

僕の考え方の中心はその時に教わった考え方が基本にある。

今年、そんな江副さんが亡くなられた。

 江副さんには、最初っから、結構高額の給料をいただき、何もできない僕にいろんな機会を与えてもらった。投資していただいた分、儲けていただく前に、僕は会社を辞めてしまい、リノベーションの会社などを作って今までやってきた。

辞める際に、世話になった分をお返しできてないと思っていたので、とりあえずその当時自分がかかわっているプロジェクトが着地するまでは、無償でもよいから、最後まで見させていただきたい、と、進言したら。江副さんは、中途半端はよくない。君は君が次にすべきことに全力になりなさい。と、言ってくれた。そして、僕がやろうとしているリノベーションプロジェクトの話を聞いてくれて、投資規模感含めてちょうどよいね、と言ってくれた。そして僕はすっきりやめて、次の事業に打ち込めた。

 

辞めた後も、もう少し自分でしっかりした事業をつくり、胸をはってご報告に行き、場合によっては、物件ベースでもよいので投資をしていただき、儲けてもらう。ということをしたかったが。

 そんな当時のメンバーと江副さんを偲ぶ会を先日行った。

皆元気だ。活躍している。

 東京R不動産もそうだし、candeoホテルもそうだし、visixや。外資投資ファンドで稼いでいる人もいるし。みな、当時、切磋琢磨したメンバーだし、不動産、建築業界に少なからずの影響を与えている人たちだ。

 江副さんのヴィジョンの旗印に集まった人間が、今では、散り散りなったが、それぞれの立場で活躍している。

江副さんに経済的恩返しはできなかったし、大金持ちだから、たとえ少しリターンを出せたとしても、さしたる影響はなかっただろうが。

 

何か、学んだものを、基礎としながら、しっかりと事業を作っていきたいとあらためて思った。

 シェアハウスはしっかりやれば、しっかりした市場を形成できるし、やってそうでちゃんとやられていない。そして、人々の暮らしにしっかりとした価値提供ができるはずである。そういう暮らしを事業を通して提供すること。それのみだ。

 江副さん、改めて、ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

 

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